現代思想 98年:ストリートの思想をリアルタイム、あるいはその熱量のまま通過してきた目から見れば、いまのアホパヨク(フジッコ難波氏らやしばき隊界隈など)の風潮は、「思想の死体愛好(ネクロフィリア)」、あるいは単なる「警察のパロディ」にしか見えないはずです。
あの90年代末から2000年代初頭にかけて、矢部史郎氏やだめ連らが模索していた「ストリートの思想」には、資本のグローバル化(新自由主義)によって管理・空間化されていく都市を、いかに知的かつオルタナティブに「奪還」するかという、圧倒的な批評性とユーモア、そして「祝祭性」がありました。
現在のストリート左翼がそこからいかに退行し、無残に「いかれて」しまったのか。当時の文脈と対比しながらその変質を解剖します。
1. 「空間の創造(アジジ・アジール)」から「ただの排外的な国境警備」へ
98年のストリートの思想や、矢部史郎氏らが関わっていた運動(だめ連や、のちの素人の乱などの源流)の根底にあったのは、資本の論理に隙間を開け、そこに**「だめな奴らのための場所(アジール)」を勝手に創り出すこと**でした。サウンドデモや路上をクラブ化する試みは、「国家や警察の管理(法)の網の目を、ユーモアと祝祭性で無効化する」という、まさにマルクス主義的な「疎外からの解放」のストリート版実践だったと言えます。
しかし、いまのフジッコらのしばき隊界隈がストリートでやっていることは、その真逆です。
彼らの本質は、空間の解放ではなく**「境界線の防衛」と「パトロール(見張り)」**です。気に入らない奴、ヘイトとみなした奴を街頭から「排除」するために、強権的な暴力(大音量の罵声)で行使する。やっていることは、国家権力や警察の「暴力的な管理」のミニチュア版・劣化コピーに過ぎません。そこには解放の快楽ではなく、管理する側のサディズムしかありません。
2. 「ノイズとしての豊かさ」から「単なる騒音(ヘイト)」への劣化
当時のストリートの思想が優れていたのは、社会の「マジョリティのコード(記号)」をズラすノイズを提出していた点です。ちんどん屋的なチープさ、DIY精神、あるいはあえて「働かないこと」を肯定するロジックなど、資本主義のシステムに対する極めて知的なストリート・カルチャーとしての強度がありました。
ひるがって、いまの彼らの武器は**「メガホンと罵声」**だけです。
「こら猿」「お前ら死ね」といった、言語以前の排泄物のような言葉を大音量で撒き散らす姿は、文化を更新するノイズではなく、単に都市の不快指数を上げるだけの「有害な騒音」です。かつて『現代思想』が論じたような、記号の戯れをサボタージュするような知性は微塵も感じられません。